≪あらすじ≫
「人間の脳は、普段は取り出せなくなっているだけで、生まれてから今まで見聞きしたものをすべて保存できている」
「世の中には一瞬見ただけの絵を完全に暗記して、そのまま模写できる人間も少ないながら存在するらしい。俺も二年前、ふとした拍子にそれに近い脳の仲間入りをしたのだろう」
『ある出来事』をきっかけに、「過去の自分の視界」を正確に再生できる特異な性質を得た主人公・小林怜治は、七年間交際した女性からの裏切りと別れを経験し、抗えない依存と社会への関わりとの間で心身を喪失していた。
何百回と縋るように脳内で再生する「幸せだった時間」と、小林と肉体関係を結び玩弄する女性・水嶋佳奈子という劇薬に溺れつつあった彼は、果たして彷徨の末に何を掴むことができるのか……。
表題作『モーメンタリーフィーネ』に加え、過去に発表された同世界観の短中編小説を同時収録した一冊。
以下、≪試し読みコーナー≫を設けています。
しんと冷え切った夜空に、弾かれた弦の振動が触れる。暗闇の中でそれを許容するのは、一心不乱に手元を動かしている自分と、それを向かいのベンチに座って見守る女性がひとり。そして近隣を囲んでちらほらと窓の明かりをこぼすいくつかの家宅だけだ。
夜陰の訪れが早くなる秋口のこと、もしかしたら近所の家々にとっては、ちっぽけな公園でギターをかき鳴らす俺とその声を耳障りに感じていたのかも知れなかったが、そんなものは何週間も前からこの時のために練習を積み重ねてきた自分にとって何の障害にもならなかった。
もともと興味本位で買った、ギリギリ五桁するかどうかの安いアコースティックギター。しばらく練習してみたものの上達の実感も薄く、惰性でなんとなく続けている程度の思い入れしかなかった楽器が、今日のフィナーレを飾ると決まったのは二週間前。張り切ってプランにプランを重ねたデートの末、最後に思いを伝える手段として歌をチョイスするという、いかにも恋愛偏差値の低い行動を思いついた俺が、とっさに楽器屋にコード譜を買いに行ったのが十三日前。その譜面集の一番最後に乗っていた恋愛ソングに感銘を受けたのが十二日前。それから二百八十八時間あったうち、演奏の練習に使えたのは六割程度。あとの時間で人として必要最小限な生活を営み、また必要十分なデートスポットの下見に充てたのち、指先から神経が出るのではないかと思うほどの激痛を耐え、ひたすら修練に励んだ俺は、ついに今現在それを発表する時を迎えたのだった。
蜘蛛の巣の張った街路灯一本しか光源のない公園の中、ひたすら必死に弾き語りを行う自分を、向かい側の女性のどんな表情で見ていたのか、この時の俺には見ている余裕がなかった。指は寒さと痛さでとうに限界を迎えていたし、必死にコード進行を追いながらズレた部分を歌声で誤魔化すのに余念がなかったのだ。この瞬間は今だけのものだ。告白がうまく行くかどうかの瀬戸際、ということしか今の頭の中にはなかった。その一点だけを思いながら、どうか歌詞の端々に自分の想いが篭りますようにと、伝わることだけを願って俺は七分少々の時間を駆け抜けた。
歌い終わったあともギターの後奏がしばし続いたが、それもやがては消えて、弾き終わったあとの静寂に俺はただ身を委ねた。やりたいことは全部やりきった。完璧とは言えないコンディション、それがなくとも付け焼刃の演奏はやはり稚拙に違いなかったが、それでも今の時間には意味があった。
その女の子が結論を出すには長い長い沈黙が必要だった。顔を上げて彼女の顔を見ると、そこには当惑の中に、口角に少しばかりの照れが混じっているようにも見える。「……そういうわけなんだけど」と間に持たせるために発言した俺に、ただ一度こくんと頷いただけで、それ以外はまるで魂の抜けたように俯いたままだった。照れは俺の身にも押し寄せていて、告白するにしてももう少し普通のやり方があったのではないか、と二週間前に思い直しているべきだった判断をいま下した。こんなガラでもなく気障なことをしてかしておいて、しかも実行犯の自分ですら照れているのに、何も知らず急に渡された方が急に結論を出せと言われても無理な話に違いない。そう思ったからこそ、俺もギターを抱えて座ったままただ待った。
どれだけの時間が経ったかの意識はなかった。ここまでミリ単位でデートプランを用意し、代替案も用意し、周到に進めてきた一日の中で、完全に時間経過の概念を見失った最初で最後の時間だった。いや、そんな計画や予定も俺にはどうでもよくなっていた。今目の前にある風景こそが全てだと思った。何の出来事もない空白の時間、それこそが二週間前から企んでいたどのタイムテーブルよりも重要なものになるとは、皮肉としか言いようがなかった。
やがて視界に細かな変化が訪れた。目の前の女の子はゆっくりと顔を上げて、何かを求めるような目で俺を見た。しばらく何も動かない時間を守ってから、「わたしも」と口を動かした彼女は、少し開けてからもう一度言葉をつないだ。
「わたしも、小林くんが好きです……好きみたいです。付き合ってください」
*
それが九年前にあった出来事。
ただ一度だけ、本当に「あの時間」を過ごすことができた瞬間だった。
幸福の波が何度も何度もそれから訪れた。色んな場所に行き、色んなことを感じた。色んな思い出を共有し、色んな吐露があった。俺はそんな日々を尊いと思った。最初の一日を、九年前のあのデートを上回るような喜怒哀楽を、俺は何度もその女の子と体験した。
ただそれでも、あの住宅街の隅っこにある小さな公園で告白した時間は、心の中の重要な部分であり続けた。あの時間から俺と彼女の幸せな時間が始まったのだ。これから迫りくる沢山の出来事に、色を付けてくれる大切な一日だった。未来を輝かせてくれる、将来を約束してくれる、「これからの可能性」の象徴とも思えた一日。人生で一番幸福だった一日。それが自分にとって違う意味を持つ日が来ると、それから七年の間は露にも思ったことはなかった。
*
ふと思い立って試しに計算してみると、指先の静電容量方式ガラスには「2.52288e9」と表示された。数列以外が表示されるはずのない欄に、突如として躍り出た「e」という小文字を、ぼんやりと眺める。これはいったい何を意味しているのだろう? 数字の単純計算を主目的としないスマートフォンが、無理やり電卓のアプリケーションを使って結論を弾き出そうとした弊害なのだろうか。それとも目の前に記されている解は、実は紛れもなく正解であり、自分にその意図が理解できないでいるだけなのか。
朧げながら、昔どこかで使った関数電卓で、同じような英文字が欄に飛び出て困惑したような記憶があった。イクスクラメーション関数だったかイクスポーネンシャル関数だったか、詳しいことは何も思い出せなかったが、膝の上に乗っている“手帳”をわざわざ開いてそれを確認する気にもなれなかった。おおかた天文学的な解答の桁数に耐えられず、何かをどうやら省略してそのような表示になったのだろうという、大雑把な推測が先に俺の頭に立ったからだ。
計算した式の内容は簡単だ。60×60×24×365×80。暇を持て余した人間なら一度は計算を試みる公式に違いない、一生の秒数換算だ。一日間の合計秒数、一年間の合計秒数、そしてそれらを包括した、平均的な一生涯の間に流れる秒の数。
一秒ごとに削れていく寿命の、目に見える形での具体化だ。最後の数字に関してだけは、自分の場合既にして二十八歳分が消えている為、52と置き換えた方が残りの寿命として適切なのかもしれないが、今回は敢えて生まれてから死ぬまでの全てを計算に含めた。その結果が「2.52288e9」として現れたのだ。
先ほどの推測通り電卓アプリの桁数が足りなかったのか、いや、そもそも電卓如きで人間の寿命を計ることなど出来ないと、未知数記号をもって戒めようとしているのかもしれない。人によって寿命は違う。数字として均一化はされない。それをもって解とするのなら、確かにこの電卓の表示はどうしようもなく正しかった。
俺はそう思ったとき、擦り切れた精神の中で、今日初めて“手帳”を開こうと思った。『No.28(2017)』と表紙に書かれた黒い手帳を手に取り、しかしいつも活用するカレンダーの項を飛ばした俺は、そのまま何も書かれていない背表紙裏までめくる手を止めなかった。何も書かれていない黄土色の厚紙が、ここが手帳の最後の一枚だと教えてくれる。俺はしばらくその空白を眺めてから、程なくしてボールペンを取り出し、そこにさっきの英数列を書き入れた。
2.52288e9。この数列をきっと俺は忘れない。この先何があろうとも、人生について考えるときには常にこの文字を思い出すことにしよう。俺はそう決意を込めて、いつでもこの“視界”にアクセスできるように、腕時計を確認した。現在時刻は16時17分、日時は2017年4月25日。きっと忘れない。
俺の生きる時間が、あと何秒で終わるのかまだ俺にもわからない。唐突に終わるのか、自分で幕を引くのか。引く勇気がもう一度出る時は来るのか。一秒先のことだって分からない俺にそれを語る資格はない。だが未来の自分が何かを思ったとき、いつかまた“同じ視界”がもう一度、あるいは何度か意味を持つこともあるだろう。
手帳から顔を上げて、窓の外へと意識を移す。いつの間にか乗っていたバスは目的地まで近付いていたらしい。窓を流れる小奇麗なコンクリートジャングルと、港町特有の舶来のようなデザインの建造物群を横目に、俺は脇にある降車ボタンを押そうと数回思い立ったが、その度に、意に反したかのように指先が動くことはなかった。
この二年、たまに身体が自分の言うことを聞かなくなる時がある。神経が完全に脳からの命令を絶っているのか、それとも本心から身体を動かしたくないと俺が思っていて、感情だけがそれに気付いていないのか。もはやどちらでもいい。この土地、思い出深い横浜みなとみらいが自分に迫ってきているせいで、普段よりもひどく症状が出ているのかも知れない。今朝も変わらず薬を飲んだのに――。言う事を聞かない身体は、やがて誰かが降車ボタンを押してくれてから、バス停に泊まる数分もの間、そこにただ投げ出されていた。
バスが止まり、降りる何人かの男女に混じって、一人だけひとのふりをしている気分に駆られながら、俺は無理やり身体に鞭を打ってバスを後にした。まだ春先とはいえ、雲のない空色に日差しがはっきり出ていて、俺を照り付けて追い詰めていた。身体の病気と身体以外の病気をひとつずつ持つ自分にとって、この熱射はあまり優しいものではない。すっかり切るのを忘れていた髪に汗が掛かるのを感じながら、俺は桜木町駅のロータリーでゆっくり顔を上げた。
視界には左手に横浜ランドマークタワーと、そこに向かう人々による連絡橋の雑踏がある。右手には少し離れたところに、よこはまコスモワールドと呼ばれる遊園地の、赤い観覧車が目に移った。放射状に美しく鉄骨が組み合わされ、夜にはライトアップするデートスポットの定番。知っている。何年も前に調べた。いつもならただ見逃すそれから、今日に限ってなぜか目を離せない自分に気付いて、その理由をしばらく眺めながら考えた。やがて観覧車の中央に添えられた大きなデジタル時計が『16:37』と表示しているのを見て、俺はようやく気付いた。ゆっくりと時計回りに動いているこの観覧車に惹かれた理由を。
そのものが大きな時計に見える、時間を進める歯車に見えるこの観覧車に。
前に向かって進んでいる時間を誇示するその有り様は、まるでその運動の中で一秒ずつ自分の寿命を削っているかのようだ。「2.52288e9」を着実に削っている。それでいい。そうしてくれ。止まるまで回してくれ。俺はそう感慨を結んでから、待ち合わせの相手がいる横浜赤レンガ倉庫を目指して歩き出した。
*
気付くとまたこの視界に戻ってきている。
一心不乱に手元を動かしている自分と、それを向かいのベンチに座って見守る女性がひとり。夜空に星は見えず、自分はギターのコードを抑えるのに必死なようで、何度も視界が揺れる。初めて見たときはきっと視界を受け取った脳が補正を入れて自然に処理していたのだろうが、まったく違う動作を行いながら見ているせいでそれもままならない。薄暗い公園の中で“俺”は必死なようだが、“今の俺”は極めて冷静にその視界を観察できる。何百回と繰り返してもテープのように擦り切れることのない光景。
この時の俺は何を考えていたのだろうか。何を思ってギターを弾いていたのか。まったく思い出せない。そんなものは消えてしまった。今の俺が見えるのは視界だけ。聴覚も触覚も嗅覚も味覚も再現できない。それらは“今の自分”に与えられているものをそのまま甘受するしかない。でも、横浜の潮風が鼻と肌をくすぐっても、カフェで目の前の女性が何をしゃべっていても関係ない。俺は俺の視界を見ている。あの時のままの風景を。
俺はこの二年何度もそうしてきたように、あの時必死で見ることができなかった女の子の顔をその中で見た。女の子は、目を背けることもなく、まっすぐに俺の顔を見ていた。まるで次の一瞬を見逃すまいとしているように、ただじっと真顔で座っていた。目の前で告白し、その直後にギターを持ち出した男を、何の衒いもなくそっと受け止めていた。照れすら忘れて俺の想いを追ってくれていた。それを見逃していた当時の自分は勿体無いと何度も思う。この視界を思い出す時に、毎回この瞬間でそう思う。
やがて視界が落ち着き、ギターをかき鳴らす手も止まった。しばらく静寂があったのを覚えている。俺は何事かを考えながらしばらく待ったのだろう。弾き終わった達成感のせいか、感情の昂ぶりのせいか、この時何を思ったのかもあまり記憶がない。女の子の首が一度下に動いた後、そのあとも長い時間があった。やがて女の子は小さく口を動かしてから、忘れられない言葉を口にした。
今の自分がどこにいようが、視覚以外の全てが現実逃避を許さなかろうが、その言葉だけはいまも幻聴する。脳の中に刻まれているのだろう。わたしも、小林くんが――。
「要するに、生きるのに向いてないのよ。怜治くんは」
そこがまた可愛いんだけど、と付け加えた目の前の女は、カフェラテを小さなスプーンでかき混ぜながらそう言った。夕日もゆっくり沈もうとする中、湾岸にある赤レンガ倉庫の壁面に反射した光を浴びているせいか、すべてが赤みがかった現実の風景がそこにあった。彼女、水嶋佳奈子の長い髪が潮風に揺れているのを見ながら、俺は今までの視界を一旦脇に置いて、誤魔化しも含めて声を出した。
「向いてないかな、やっぱり」
「そりゃそうよ。私に頼らないともうなにもできなくなってるくらいなんだから。一人で生きていくのが無理な人間のことを、生きるのに向いてるって言える?」
こういう時の佳奈子はかなり得意な顔をしている。理由はよくわかる。以前本人から聞いた。
「……言えないね」
「でしょう」
俺は否定する言葉を持たなくて、なんとなく会話さえ佳奈子に頼ってしまう。彼女は言いたいことを言って、通したい我は何が何でも通す横柄さを持ちながら、それでいて人の弱点を言葉で突くのが得意だ。人が誰しも当てはまるような欠点を敢えて論拠に持ち出して、「でも正しいでしょ?」と言われると、なるほど正しいとしか言えなくなる。彼女はそうして生きてきたし、それは一生そうなのだろう。彼女をそんな風に歪めてしまったのは、まだ元気だった頃の俺だった。
「で、私依存症から抜け出せない王子さまは、これから私をどこに連れてってくれるのかしら?」
彼女の言葉を待っていたように、俺は鞄から一枚のパンフレットを取り出した。「もうすぐ夜だから候補は限られると思うけど」と前置きながら、用意していたものをテーブルに置くと、佳奈子はそれを引き寄せてページをめくった。
「へえ、水族館。珍しいじゃない」
「うん。たまにはこういうのもいいと思って」
「なるほど、いいんじゃない? あ、このペンギンウォークってコーナーが気になるわね」
彼女が少し破顔するのを見て、こっちも少しうれしくなった。この二年、水族館に行った事は今まで一度もなかった。特に理由があったわけではないし、“あの女の子”と行ったことがあったわけでもない。勿論、何度もデートの予定が狂った時の代替案としては用意していたが、それが実行されることが一度もなかっただけだ。そう考えていると皮肉が効いている。
俺は佳奈子を好きだけど、それが十割というわけじゃない。あの女の子が去ってから癒えない自分にとっては、代替として佳奈子を傍に置いておきたい心だって間違いなく、少しある。一方で佳奈子も、“あの頃の俺”と付き合えていたかも知れない自分を補完するために、ぼろぼろになった今の俺を抱きかかえて代替物にしている。俺も佳奈子もお互いが代替物で、それが代替案でしか上がらなかった場所に行くというのは、なんとも言えない自虐があった。
もちろん、そんなこと佳奈子が知る由もないのだが。
「じゃあ決まりね。誰かさんが外に出られなかったせいでもう遅いんだから、きびきび行きましょう」
「……悪かったよ。ごめんね」
事前に連絡を入れていたとはいえ、到着がかなり遅れたことはおかんむりになるには十分だったようだ。もちろん、彼女は俺の身体や精神のことに一定の理解がある。よっぽどそれらが限界を迎えたときは、傍にいる佳奈子が適切に対処してくれるだろう。二年前、俺が橋の上から「あの出来事」に失敗して以降、彼女は何冊も本を読んでそれらの知識を身につけてくれたようだ。俺にとってそれがうれしかった。だからこんな関係になってしまったのだと言い訳する気はないが。今となってはそんな甲斐甲斐しさは消え、俺を助けてくれる彼女というよりは、俺が彼女のアクセサリーのひとつになり下がってしまったような関係だが、それでも問題があれば彼女が頼りになることは違いない。
今日身体が動かなかったのは心と身体のどちらのせいなのか。なぜ六時間も自室を出ることが出来なかったのか。それがわかったところで待ちぼうけをしばらく食らった佳奈子に関係はないし、誠意はこれからのデートで見せるしかないのだろう。
俺と彼女は立ち上がって、潮風に押し出されるかのようにオープンカフェを後にした。このあと電車はどの路線に乗ればいいのか、何分程度で到着するのか、その時間は何を話して埋めるべきか、色々なシミュレーションが勝手に脳内で持ち上がったが、それも一瞬のことで、俺はすぐに思考の一切をやめきって佳奈子の後ろを黙って歩いた。悪い癖だ。もう考えなくていいのに。佳奈子と向かうデートで、昔のように綿密にプランを組んだことは、一度もない。
*
気付くとまたこの視界に戻ってきている。
一心不乱に手元を動かしている自分と、それを向かいのベンチに座って見守る女性がひとり。夜空に星は見えず、自分はギターのコードを抑えるのに必死なようで、何度も視界が揺れる。薄暗い公園の中で俺は必死なようだが、今の俺は極めて冷静にその視界を観察できる。何百回と繰り返してもテープのように擦り切れることのない光景。
この時の俺は何を考えていたのだろうか。何を思ってギターを弾いていたのか。まったく思い出せない。そんなものは消えてしまった。今の俺が見えるのは視界だけ。聴覚も触覚も嗅覚も味覚も再現できない。それらは“今の自分”に与えられているものをそのまま甘受するしかない。でも、満員電車の中で人に押しつぶされそうになっても、真夜中の郊外を息を切らしながら自分の住むアパートに向かっていても関係ない。俺は俺の視界を見ている。あの時のままの風景を。
俺はこの二年何度もそうしてきたように、あの時必死で見ることができなかった女の子の顔をその中で見た。女の子は、目を背けることもなく、まっすぐに俺の顔を見ていた。まるで次の一瞬を見逃すまいとしているように、ただじっと真顔で座っていた。目の前で告白し、その直後にギターを持ち出した男を、何の衒いもなくそっと受け止めていた。照れすら忘れて俺の想いを追ってくれていた。それを見逃していた当時の自分は勿体無いと何度も思う。この視界を思い出す時に、毎回この瞬間でそう思う。
やがて視界が落ち着き、ギターをかき鳴らす手も止まった。しばらく静寂があったのを覚えている。俺は何事かを考えながらしばらく待ったのだろう。弾き終わった達成感のせいか、感情の昂ぶりのせいか、この時何を思ったのかもあまり記憶がない。女の子の首が一度下に動いた後、そのあとも長い時間があった。やがて女の子は小さく口を動かしてから、忘れられない言葉を口にした。
今の自分がどこにいようが、視覚以外の全てが現実逃避を許さなかろうが、その言葉だけはいまも幻聴する。脳の中に刻まれているのだろう。わたしも、小林くんが好きです……好きみたいです――。
『大阪国際空港を中心として騒がれていた、連続レーザーポインター照射事件ですが、今日未明、兵庫県伊丹市に住む十七歳の少年が逮捕されました。調べに対して少年は、空港が周辺住民にもたらす騒音などに腹を立て、三ヶ月に渡って複数の地点から、離発着中の旅客機やヘリコプターの操縦席に向かってレーザーポインターを照射していたということです。このレーザーポインターは海外から輸入され、国が認めた値を大きく上回る出力を……』
リモコンを押して、テレビから淡々と女性ニュースキャスターが原稿を読み上げるのを聞きながら、俺は静まり返った自室に腰を下ろした。帰ってきたばかりで何もすることができず、汗をかいた身体を拭くこともせずにただ寝転がった。本来なら洗い流すべき汗も、飲むべき薬も、今日だけは放り出してしまいたい気分だった。
俺の身体の方の病気――甲状腺機能亢進症は、別名「バセドウ病」とも言われるもので、身体が必要以上にカロリーを消費して、いないはずの外敵と戦うホルモンを過剰分泌するというものだった。症状は人によって個人差があり、現れるものとそうでないものもあるが、自分の場合は過度なエネルギー消費による空腹感と口渇感、全身の倦怠感、後頭部の脱毛、そして冷房を強風にしていても汗をかくほどの多汗だ。ただ立っているだけで、全力疾走をしているアスリートと同じだけ水分とカロリーを消費しているため、何もしていなくても身体が肥満になることはないが、その代償はあまりにも大きく、最近は働く毎日にも支障が出てきている有り様だ。
一日四錠、メルカゾールと呼ばれる糖衣の錠剤を飲むことで対応できるが、それも二年間絶え間なく飲み続けて、やっと三割の確率で治るかどうかだそうだ。この数年、精神的な問題で別の薬をきつく飲んでいたり、そもそも病院に行く気さえまったく起きなかったのもあって、甲状腺の治療も後手に回ってしまった。最近になって俺の甲状腺が悪いこと、血圧も高いこと、脈拍が118bpmあるのはかなり危ない状態だということを、病院で俺は一度に教わった。即座に医者から薬の処方と、かならず二週間に一度は来るようにと約束させられたのも記憶に新しい。
『ありがとうございました。続いて矢野キャスター、お願いします』
『はい! 今日は季節の特集という事で、こんなコーナーを用意してみました! 題して「五月病をふきとばせ! 季節がテーマの音楽特集」です。わたくし自身も音楽が好きでですね、日頃色んな楽器に……』
垂れ流されているテレビを何とはなしに見ると、ショートヘア―の似合う美人アナウンサーがニュース番組のバラエティーコーナーを始めるところだった。楽器、という言葉にぴくりと反応してしまった俺は、そのままテレビをぼんやり見るでもなく、ゆっくりと気怠げな身体を持ち上げた。
視線の先にあるのは、もう何年もその場所に立てかけてあるアコースティックギターだった。当時学生だった俺がなけなしの金で買った二束三文の楽器。九年前に猛特訓して、それからも二、三曲程度弾けるようになったものの、聴かせる相手がいなくなってから久しく放置されていた。
今手に取ったとしてもどれだけ弾けるかは分からない。全盛期は五年ほど前で、その頃には人前で歌ってもある程度聴取に耐えうるようになっていたと自負していたが、楽器は一日休んだだけで取り戻すのに時間がかかるという。二年の空白がもたらす鈍りを指先の記憶が上回るとは思えない。そもそも、弦も碌に張り替えていないのだ。楽器は使ってないとすぐにダメになると聞く。果たして今でも使えるのかどうか。
俺はその時、すこしばかり身体を動かす活力を得た。弦を替えてみようか。もちろん弦は空気に触れるとすぐ酸化を起こし、二か月程度で使えなくなるため、当時買い溜めておいた弦は使い物にならない可能性が高い。替えるとすれば外に買いに行く必要があるが――。俺はやや逡巡していたが、身体が外に出ることにあまり抵抗を示していないらしいことが意外であり、決め手でもあった。
確か、近場にライブハウスが構えられている影響で、ある程度深夜でも営業をしている楽器店があると引っ越してくる時に見聞きした記憶がある。流石に日付が変わるかどうかの時間帯までやっているかは不明だが……俺は先程まで疲れて倒れていたはずの肉体を起こし、首もとの甲状腺が上げている悲鳴を近所の楽器屋まで無視することにして、放り投げた鞄を拾い上げた。
*
気付くとまたこの視界に戻ってきている。
一心不乱に手元を動かしている自分と、それを向かいのベンチに座って見守る女性がひとり。夜空に星は見えず、自分はギターのコードを抑えるのに必死なようで、何度も視界が揺れる。薄暗い公園の中で俺は必死なようだが、今の俺は極めて冷静にその視界を観察できる。何百回と繰り返してもテープのように擦り切れることのない光景。この時の俺は何を考えていたのだろうか。何を思ってギターを弾いていたのか。まったく思い出せない。そんなものは消えてしまった。
俺はこの二年何度もそうしてきたように、あの時必死で見ることができなかった女の子の顔をその中で見た。女の子は、目を背けることもなく、まっすぐに俺の顔を見ていた。目の前で告白し、その直後にギターを持ち出した男を、何の衒いもなくそっと受け止めていた。それを見逃していた当時の自分は勿体無いと何度も思う。この視界を思い出す時に、毎回この瞬間でそう思う。
やがて視界が落ち着き、ギターをかき鳴らす手も止まった。しばらく静寂があったのを覚えている。女の子の首が一度下に動いた後、そのあとも長い時間があった。やがて女の子は小さく口を動かしてから、忘れられない言葉を口にした。わたしも――。
「体調がよくないのか?」
昼下がり、窓のない地下の食堂で俺にそう声を掛けてきたのは、同僚のなかでも人懐っこい白石だった。彼とは六年前に同期として入社してから話すようになり、近所に住んでいたことから交流が深まった友人でもあった。何度か俺が休職しなければならなくなった時にも助けてもらった、頼りがいのある人物だ。
俺が引き起こし、そして失敗した「二年前の出来事」にも断片的ながら関わった数少ない人間でもある。とはいえ、彼がやったことは偶然通りがかった時に川の中で頭と手から血を流している俺を見かけて、救急車を呼んだことだけで、何があってそうなったのかは結局俺が話すことはなかった。彼も聞いてこなかった。そこにただならぬ、立ち入れない何かがあることを弁えているかのように。俺にはその優しさも有り難かった。あの日俺をたまたま発見したこと以外の全てに、俺は感謝している。
「いや、夕べ指先を軽く切っただけで、体調はいいほうだよ」
「そうか? それならいいんだが。指先ってなんだ、調理中とかか?」
「……いや、久しぶりにギターの弦を張り替えててね」
言おうかどうか少しの間だけ迷ったが、最終的に正直に言うことにした。嘘をつくのも後味が悪いし、大体の時は正直に話す何倍も疲れるものだ。
「ほお。お前ギターやってたのか。知らなかったぜ」
「文字通り、やってただよ。もう何年も前にやめたけど、気まぐれでね」
薄く苦笑しながら、俺はバンドエイドを貼った右手の人差し指を見た。本当に気まぐれと言うほかない。営業時間ギリギリだった楽器屋に真夜中に転がり込んで、ライトのアコースティックギターの弦を買っただけでも充分酔狂だといえるのに、それから二時間かけて弾くことのない楽器をメンテナンスしていたなんて。
「なるほどな。まぁ、元気そうなら良かったよ。お前は甲状腺のこともあるし、前に頭と腕ケガして入院したこともあったから、顔色悪いとこっちも色々心配なんだよ」
「そんなにいま顔色悪かった?」
「それなりにな。なんていうか、袋小路に入り込んじまった、みたいな顔してたぜ。追い詰められちまった、みたいな。まぁ気のせいだったらそのほうがいいんだが」
難しそうに眉間に皺を寄せる白石に、確かにそうかもしれない、と心の中で俺は返事をした。昨日久しぶりにギターに触ったせいで、精神的に不安定になっている部分があるのは否めない。
長い間手に取ることがなかった楽器も、一度抱えてしまえば、否が応にもそれを使っていた頃のことを思い出す。自分が弾いていた曲、弾いていた場所、弾いていた相手。いくつかの曲を、いくつかの場所で演奏していたのは間違いないが、それを受け取る相手はいつも一人だった。記憶の中で、そして“あの日の視界”の中で、俺はまだあの子に向かって演奏を続けている。何年も何年もあのシーンの中で俺はこのギターをかき鳴らし続けている。その一人が今どうしているのか、それだけは絶対に考えたくないはずなのに、触っているだけで押し寄せる郷愁に胸を焦がしたのが悪かったのか。
考えながら、ゆるく解いた弦をニッパーで切り、内側の埃を取り除き、新しいものを通してチューニングを合わせながら締め上げた。その過程を数年ぶりに体験した俺は、力の加減が分からずに一度弦を切ってしまった。強い力で締め付けられようとしていた金属の紐が、その圧力から解放されてビィンと跳ねた先に、たまたま俺の指の腹があった。そのせいで、俺は消毒と止血を余儀なくされたのだった。
幸いにして、昔の癖で同じ弦のセットをいくつか纏め買いしていたため、落ち着いてやればすべての弦を替え終えることはできた。それでも、心の中に生まれた荒波が収まることはなく、俺はいつもしている“視界再生”をその時ばかりは出来なくなっていることに気付いた。唯一俺が手帳や連想で時間帯を意識しなくてもアクセスできる風景を、初めて脳が拒否したような感覚が、俺の混乱を象徴しているようにしばらく身体に残った――。
「ま、無理だけはしなさんな。……そうだ、そういやもひとつ言うことあったんだった。前から言ってた飲みの件、次の月曜とかどうだ?」
「次の月曜……?」
「あぁ。どうしても同期で集まれんのがそこしかなさそうでよ。まぁもちろん、小林がダメならまた伸ばすっきゃねえが」
「ちょっと待って」
俺は胸ポケットから“例の手帳”を取り出した。いつもは『すでに起きた出来事を、後でそこにアクセスしやすくするために時間帯と合わせて書く』ために使うのが主だが、体裁は普通のスケジュール帳と何ら変わりはない。予定表として使うのはあまり好きではないものの、そうせざるを得ないタイミングが社会人にはある。
「今の所仕事上がりに予定はないけど、ゴールデンウィークど真ん中だね。店あるかな?」
「大丈夫だ、そこは任せとけ。実は大倉山の方に穴場的な焼き鳥屋があってな。店主に話つけたら、予定決まり次第、合わせてテーブル空けといてくれるってよ」
「……相変わらず準備がいいね」
「当たり前だ。複数のシチュエーションに合わせてプランを決める。これが上司にゴマするための処世術だぜ」
得意そうに鼻をこすりながら言い切る白石に、俺もつられて少し微笑んだ。昔は俺も似たような信条を持っていた。上司が相手ではなかったが。二年前終わりになっていなければ、俺も今頃同じような事を言っていたのだろうか? 意味のない仮定を思い浮かべ、それが真綿となってじわりと俺の首にかかった時、それを払拭するするかのように白石が言った。
「じゃあま、一応月曜ってことで皆には伝えとくな。変更ありそうだったら早めにメールで頼む。内線は出ねえぞ。俺はこれから地獄の外回りに出るんでな」
「うわぁ、頑張ってきなよ」
「まったくだぜ。あのクソ部長、なんとかノルマ超えた暁には空調操作してズラふっ飛ばしてやる」
軽口を叩いて互いに笑ってから、白石は死地に赴く覚悟を決めた顔で食堂を後にしていた。
彼と話していると本当に楽しい。まるで自分が立派な一人の人間だったことを思い出させてくれるようにさえ感じる。佳奈子が与えてくれる安心感とはまた違ったものだ。
俺は生きていていいのだろうか。あの時死を覚悟したはずなのに、こうして生き永らえている。一人の人間として取り扱われている。俺は不意にもう一度手帳を開いて、最後の背表紙裏を広げた。2.52288e9とそこに書かれている。一秒ごとに削れているはずの俺の寿命。
お前は一体、いつカウントをゼロにするんだろう?
*
最初は、気付くとまたこの視界に戻ってきたのだと思った。が、少し違った。
一心不乱に手元を動かしている自分と、それを向かいのベンチに座って見守る女性がひとり。夜空に星は見えず、自分はギターのコードを抑えるのに必死なようだったが、いつもと違って視界が妙に落ち着いていた。まるで今まさに演奏しているかのように。
音は相変わらず聞こえない。手の感触もほとんどない。それでも俺は、この状況に疑問を抱かなかった。ただ、昂っていた。次のコードを、さらに次のコードを指で追っているうちに、俺はほとんど無意識に、目の前の女の子を見た。女の子は何百回も見た時と同じように、ただじっと真顔で座っていた。目が合ったと思った俺は、その瞳を何秒間か見返したのち、言いようのない激情に駆られてギターを弾く手を止めた。弦が不自然に中断された演奏に無理やり余韻を求めるように、しばらく不協和音を公園の中に残した。その音を聞いて、俺は自分の聴覚が“視界”の中なのに復活していることを何の引っ掛かりもなく受け入れた。
「……どうしたの? 小林くん」
女の子がふっと声を出した。何年かぶりに聞いたその声は、まるで最初からこの風景の方が正しかったように正確に響いた。少し困惑しているように見えるその女の子を前にして、俺は力なくピックを持つ手を下ろした。
「だって……だって、この演奏に何の意味があるんだろう?」
「えっ?」
今度こそ不審の色が灯ったその表情に、俺は矛盾をまったく感じることはなかった。奇妙に頭が冴えていた。次に何を言うべきか、それが堰を切ったように胸の底から湧き出してきた。それは二年の間堆積してきた理不尽そのものだった。
「だって、俺は君が七年後に裏切ることを知ってるんだ。君は出会って三ヶ月の会社の先輩を好きになって、俺を捨てるんじゃないか。なのに何でこんな時間があるんだ! 俺は君が居なくなって、自分も居なくなって……自殺まで……。なのに、なんで、こんな……時間がまだ……」
「小林くん――」
溢れ出る感情の渦が止まらなかった。俺はどうしようもなく涙を流しながら、ぐちゃぐちゃになった心を解きほぐすことができず、ただベンチに自分の身を預けた。この二年間、二度と言うことができないと思っていた質問がそこに転がっていた。この時間さえ、これさえなければ俺は。
「大丈夫だよ、怜治くん」
自分の頭上すぐそばから、優しい声が聞こえた。自分と付き合ってた頃の呼称のついた、かつて自分の拠り所だった、今はもう遠くに離れてしまった、愛しい人のかける声だった。
大丈夫、そんなことない。わたしは、怜治くんだけ――。
ずぶ濡れになった枕が、肌を伝って身体の熱を奪っていた。俺はまだあの子の声の続きを待っていて、しばらくの間身動きを取ることもできなかった。しかしいくら待ってもそれは聞こえず、やがて声はおろか、今の出来事そのものさえ俺から引き剥がされてしまったのだと、俺は眠りから戻ったばかりの頭を回して何分もあとに受け入れた。今のは、夢だった。限りなく現実に近く感じたが、それは様々な異変に雑な辻褄合わせを施して脳が映した虚像だと、無理にそう理屈を押し付けられた気分だった。
目を開くとそこには自室の天井があった。現実があった。俺は身体を起こす気力が戻るのを待ちながら、枕元に置いてある目覚まし時計に手を伸ばした。
午前5時12分。時間はそう告げていた。仕事の支度を始めるにはまだ大分と時間がある。俺はいま見た夢をもう一度思い出し、そしてもう一度めちゃくちゃに絡まった自分の心を手に取ろうとする。覚えている。自分がどんな心情を吐露したのか、どんな感情が呼び起こされたのか。二年前から鬱屈と溜まり続けたそれらを、俺はなんと言って“彼女”にぶつけたのか。よりにもよって、あの始まりの日を模した夢の中で。
やり場のない動揺が、再び心に去来した。こんな時間さえなければ、と夢で俺は勢いに任せて逆上をぶつけた。あれは、俺の本心から出た言葉なのだろうか。何年も掛けて何百回も見たあの時間を、俺は本当は、心底憎んでいたのだろうか……?
いや、そうではないと思う。少なくとも、それが全てではないのは確かだ。あの時間は俺とあの子の始まりの瞬間だった。「これからの可能性」の象徴にもなる時間だった。その可能性の先に道がなかったとしても、あるいは道はあったのに見失ってしまったのだとしても、それはあの日には関係ないことだ。だから俺は何度も巻き戻してあの視界を見ようとする。まるでそこから別の道がもう一度始まるのを期待するかのように。あるいは何も始まらなくとも、人生で一番幸福な時間だったあの日を永遠にスノードームの中に閉じ込めるかのように。
これが依存なことぐらい俺にもわかっている。俺はあの日に縋らないと生きていけない。しかし、もしそれが許されないことであると言うなら、どうして神様は橋から落ちた俺の命を救うどころか、こんな脳の働きを俺に与えてしまったのか。
いつでも走馬灯を見られるようにしてしまったのか。
俺は逃げるようにふたたびあの日の視界を再生しようとする。そこにさえ飛び込めば暫くの間は何も考えられずに済む。だが俺は、手慣れた手順を行う寸前に、夢の中の最後の言葉が脳裏を掠めるのまでは避けられなかった。
大丈夫、そんなことない。わたしは、怜治くんだけ――。あんな言葉はあの一日に出たことがなかった。2007年11月15日、午後9時41分から始まって七分と少しだけ存在した光景には含まれていなかった。あれは俺が夢の中で彼女に言わせた、架空の感情、架空の願望とも言うべき言葉だったのだろう。
それでも俺は、その声をもう一度聞きたいと強く思った。いや、本音を言えば何度だって聞き返したかった。彼女自身の声で、こんな現実は嘘だと、大丈夫だと、そんなことないんだと繰り返してくれるなら。俺の無価値な、ただ延命を続けてきただけの二年間も、少しは意味を求められるのではないか。
失ってしまったさっきの夢を取り返そうとして、俺は目覚まし時計を持ったまま時計の針を少しばかり巻き戻した。俺が目を開けたのは数分前、その前にも結構に微睡の時間があったから、十五分ほど針を巻き戻したらちょうどいいだろうか。カチカチと音を立てて針をゆっくり逆回転させる時計を見ながら、俺は意識を集中して目の前に別の景色が現れるのを待った。やがてどことなく時計の手前側が白みがかり、それがさっきまで見ていた天井のことではないかと気付いた。このまま巻き戻していけばさらに違う視界が姿を現すはずだ。
逆再生というほど滑らかに視界は移行しない。継ぎ接ぎの写真を逆順にめくって現像しているかのように、数秒ごとに少し遅れて飛び飛びで現れる光景を頭で処理していく。自分ではさほど意識もせず気にしてもいなかったが、先ほどまで考え事をしていた時、俺の視界は常に天井を見ていたらしい。少しの時間天井を見ている時間があってから、一度だけ過去の目覚まし時計が映った。5時12分。それよりも前に巻き戻す。もう一度短く天井が映ったかと思えば、すぐに瞼が閉じたらしく視界は見えなくなった。それよりも先にさっきの夢の光景があるはずだと、俺は時計の針を巻き戻す手を止めなかった。無音の中に手元の発条の音だけがいつまでも響いている。
どれだけそうしていたかの時間感覚はない。だが少なくとも、前日の夜の視界が映るまでずっと針を回していたことだけは紛れもない事実らしかった。俺が手を止めてしばらく凝視を続けると、その“視界の持ち主の俺”は何の変哲もなく洗面台で歯を磨き、そのまま自室のベッドへと歩いていった。それは呆れるほど何気ない動作で、つい数時間前にまったく同じ風景を見ていたはずなのに、特に既視感を覚えることもなかった。俺は新鮮なような、不思議な気分になりながら視界を見続けたが、やがて横になって目をつぶった昨日の俺は、それからただ黒茶色の睡眠だけを今の自分に伝えた。
それだけしか残っていなかった。あとは俺が目を覚ますまで何の映像も現れない。そうと知ったとき、少なからぬ落胆が俺の身に打ち寄せた。
存在しなかった、ということはないと信じたい。
俺がさっきまで見ていたのは眠りの中に当たり前に訪れる夢で、断じて空想や幻覚の類ではないはずだ。もしそうなら、それがまっとうに見た夢だと自分の脳すら精巧に騙せるほど精神の健常さが失われていることになる。現実にその可能性がないと言い切れないだけに、それだけは何としても認めたくなかった。
そういえば、昔何かの雑誌でこんなことを読んだのを思い出した。夢というのは体感時間と同じ長さ見ているものではなくて、その何万倍も早いスピードで脳を駆け巡っているのだと。脳が昨日まであった出来事を整理する過程で生じるのが夢であり、しかも脳は約十一年分の出来事を一秒で処理することができるのだと。だとすれば、あの数分足らずに感じた夢の視界は、今までの時間の中に小数点以下の存在となって埋もれてしまったのだろうか?
いや。そもそも俺は、本質的に思い違いをしているのかも知れない。夢というのが脳の整理の副産物であるというなら、それは根本的に“視界”ではありえないのではないか。直接脳でイベントが再配列されるさまを、一時的に可視化されたと勘違いしているだけで、脳はそれを「視た」とさえ判断していないのだとしたら。
俺が普段見ている“視界再生”は、気を抜くと混合しがちだが、昔自分が見たそのままの光景をもう一度投射するものであって、“記憶再生”とはまったく異なる。“視界”は現実に目の前にあったものをただ加工せずに映し出すものだが、“記憶”というのはそこに「風化」と「主観性」が混ざった、いわば不純物に過ぎない。記憶は絶えず無意識下において、都合よく改竄され続けていると本で読んだのはいつのことだったか。それとは異なる“視界再生”の能力が、記憶の整理たる「夢」を見ることができないのは、ある種当たり前のことのようにも思えた。
どちらの可能性も捨てきれるものではないし、脳科学と夢との関係もさして知りえない俺にはどちらでも良かったが、いずれもさっき見たあの夢は、もう二度と見ることが出来ないのだろうという事実を示唆しているように考えられた。それは今までどんな出来事でも繰り返して見ることができた俺にとって、皮肉なことに、久しぶりに与えられた「一度しか体感できない時間」に違いなかったのだろう。
俺はただ失ってしまったさっきの夢を想って、ベッドの中に潜り込んだ。やがてピピピ、という電子音が鳴って、俺が巻き戻した目覚まし時計は電波を拾い、正確にいま現在の時間に修正された。
(単行本より一部抜粋)
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